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ミュージカル「パレード」感想

ミュージカル「パレード」

東京芸術劇場 2021年1月観劇

 

(以下、HPより)

作 アルフレッド・ウーリー
作詞・作曲 ジェイソン・ロバート・ブラウン
共同構想及びブロードウェイ版演出 ハロルド・プリンス
演出 森新太郎

キャスト
石丸幹二堀内敬子武田真治、坂元健児、福井貴一、今井清隆、石川 禅、岡本健一
安崎 求、未来優希、内藤大希、宮川 浩、秋園美緒、飯野めぐみ、熊谷彩春
石井雅登、白石拓也、渡辺崇人、森山大輔、水野貴以、横岡沙季、吉田萌美

企画・制作 ホリプロ

(以下、HPより)

 

メモ
 初演はアメリカで1998年(22年前)。日本では2017年以来2回目の公演。

 

感想
・観劇後にすっきりしない理由
 この作品を見ていて本当にもどかしい気持ちになるのは、客席の目から見ればレオが犯人でないことは明らかなのに、マジョリティの力によって事実がねじ伏せられて有罪に仕立て上げられてしまうところだと感じる。途中、裁判の証言は嘘であるとわかって一瞬強い希望の光が射し、しかしその直後にレオは私刑により命を落として終幕となる。
 司法制度が人を裁くためのシステムであって、真実を明らかにするためのシステムではないというところがどうにも歯がゆく悔しい。もちろん公正な調査によって真実が明らかになる事件もあるだろうが、そうでない事件もあるということ。それに差別的なものが加担していること。
 それと、あれだけ扇動した記者はなにも責任を問われないのか、という単純な疑問と悔しさがのこった。

・差別のこととか対人的な言動について
 黒人差別の上にユダヤ人差別を重ねた構造になっている。歴史が動く上でこういった構造は少なくないのかもと思った。
 また、ストーリーの大きな流れとして、レオはユダヤ差別という意識の扇動の結果犯人に仕立て上げられたわけだが、レオ自身も南部の人間に対して、差別とまではいかない(と言っていいかわからないが、なにかを行使するわけではない)が、根底に自分とは違う人間だという意識がある。(♪M2a)
 最後のシーンを見ていてふと、差別の構造と戦争の構造がとても似ているなとおもった。仮想敵を作って仲間意識を高めるという感じ。これも遠い過去に学校で習ったような気がする。多分それを思い出した。
 それと、これは差別とは違うけど、冒頭から再調査が始まるまでのレオのルシールに対する態度があまりにもひどくて胸糞悪い。のちに変わるとわかっていると余計鼻につくというか。まあ事件が起こるまでの2人の関係性がどんなだったか調べていないのでわかりませんが。ただ、裁判の時点でレオが明確に無罪だとわかっている(というより「信じられる」というのか)のはルシールだけだったのか、と思うと、レオのために奔走できるのは彼女しかいなかった。それにしても重い。自分がそんな立場だったら生きていける気がしない。実際にはじめは裁判に立ち会えないという姿勢だったのだけど。

・This is not over yet
 この音楽がとても好きだ。湧き上がってくるような期待と光があって、わくわくせざるを得ない曲調。久しぶりに聞いたらそのわくわくが懐かしくてうれしかった。しかし作品的にはここで見せた希望が明るくなるほど最後の絶望がコントラストで大きくなる気がして、結末を知ってから見るこのシーンはどんな気持ちで見たらよいのかわからなくなってくる。
 それと、この曲だけじゃない「まだ終わりじゃない」のダブルミーニング感。プログラムの背表紙にも印刷されていて、これはまだこの作品は幕が下りて終わりじゃないんだよと言われている気がする。レオの人生は終わってしまっても、そのあと残された人は、アメリカは、世界は?と投げかけられているような。

・2021年の「今」、「日本で」上演するということ
  前回公演時より、時代がこの作品の社会的役割みたいなものを大きくしてしまったような、見るのにますます覚悟がいる作品になったという印象があった。でもやはり見なければと思わせる要素がたくさんあった。再調査を知事が宣言した後市民が暴動を起こすようなシーンは、ついこの間テレビの画面でみたアメリカがフラッシュバックした。
 新型ウイルスのせいか(おかげといってもいいかもしれないが)、はたまた私個人の価値観の変化なのか、この1年弱で政治的な問題が次々に表に出てきているような気がしていて、これまでひっかからずに見られたところが引っかかったりするようになった気がする。
 
 私は日本人であり、アメリカの歴史を背負って生きているわけではない。しかし、この作品をみたら、すぐそこにある危機感というか、日本でも同じかそれよりもひどいことが起きることが容易に想像できるようになったような。差別というのは本当に身近だ。自分がする側にもされる側にもなりうる。現になっているのだと思う。
 この事件をミュージカル作品にできるのってすごいと思う。アメリカ…。だってまだ差別は存在しているわけでけして「過去」じゃない。それを1998年の時点で作品にしているということが。それを日本に持ってこれた、上演を決断して決行してくださった方々にもありがとうだな。


 人が扇動されていく熱を帯びたうねりみたいなものが、音楽によって舞台装置によって演出によってすごく強く表現されていて、ミュージカルってすごいな、と思った。音楽的な気持ちよさ、気持ち悪さ、それらに体が反応してしまう感じというのが、理屈じゃなくあるよなってのを自覚させる。
 自分が正義と信じるものを武器にして暴走するということはありうるだろうし、正しいと思ったものを信じて動くことはすべてが悪いことではない、しかし見失ってはならないものを見失わないようにしなければ。見失わないためにはどうすればよいだろう。たぶんその決定的な答えは見つからなくてもよくて、自分も世界も疑いながら勉強しながら調べながら、様々な意見を聞いて、考えて、ただ流されて生きていくことをやめるしかないのだと思う。

 

(1月ごろに書いておりました。)