きた みた きいた

感想 内容に触れています

DULL-COLORED POP第24回本公演『プルーフ/証明』感想

とても時間があいてしまいました。



DULL-COLORED POP 第24回本公演『プルーフ/証明』


【キャスト】敬称略
Aバージョン:大内彩加、宮地洸成、大塚由祈子、 大原研二
Bバージョン:伊藤麗、阿久津京介、原田樹里、中田顕史郎
Cバージョン:柴田美波、 竪山隼太 、水口早香、古屋隆太

【スタッフ】敬称略
翻訳・演出:谷賢一(DULL-COLORED POP) 演出助手:池内風(かわいいコンビニ店員飯田さん) 照明:松本大介(松本デザイン室) 衣裳:友好まり子 舞台監督:竹井祐樹、谷賢一 音響協力:佐藤こうじ(Sugar Sound) Bチーム音楽:岡田太郎(悪い芝居) Bチームピアノ:松浦はすみ 配信監督:高畑 陸(シル/CHARA DE) 写真撮影:恵比須亮(MATATU) ドキュメンタリーフィルム監督・撮影・編集:菊池 博美 パンフレット編集:西峰正人 制作:合同会社DULL-COLORED POP、倉橋愛実

(以上、HPとパンフレットから)

*本公演から劇場で観劇
*ABC各1公演ずつ観劇

見てよかった作品。久しぶりに劇場でマスクが水浸しになるくらい泣いた。涙って、なんで流れてくるんだっけ?と泣くたびに思うんだけど、どういう感情が原因なのか。今回の涙はとにかく気持ちが動かされたってことのように感じた。感動って言葉じゃ感情が曖昧な感じがする。

まず1公演見て、内容は、自分的には結構しんどいなと感じた。(でも全くのフィクションとかハッピーで笑える喜劇!って話よりこういう話のほうが私はすきだ。)リアルな家族とか人間同士の問題、ぶつかったりすれ違ったり噛み合わなかったりっていうのが続いていく。爆発と衝突と。

4人しか出てこない作品。
私は1番は父と娘(キャサリン)の関係に重きをおいて観ていた気がする。
大きく親の介護や世話みたいな問題があって、それだけでは終わらず、父と娘キャサリンの間には数学とその才能という切っても切れないものがあって、それも含めた父のキャサリンに対する気持ち(感謝とかもあるんだけどなんだろう、もっと大切でかけがえのないものだという重くて…なんだろう?愛?エゴとか親心とかもある)がなんとも言えなく、大きい…。
(そっちがメインだけど父と娘クレアの関係も切ないなと思う。)


1回の公演で、演出ががらっと違う3パターンという公演を見るのは初めてで、それは想像していたよりずっとすごい試みだった。今までありそうでなかった。
だって、衣装も照明も音楽も立ち位置とか香盤(っていうのか?)タイミングも小道具もセットも違う。こんなの3公演分を一気に進めてるのと同じじゃん…という量的なすごさもあるし、それ以上に3講演見ることで違う角度から物事を見て深めていくような面白さもある。どんどん解像度が上がるというか……。
4人のみの人物なんだけど、チームによって、父と娘の、姉妹の、師匠と弟子の、男女の関係がみんな違って見えて、でも本は同じだからストーリーとか本質は重なっていて、同じ言葉はなので意味としては回を重ねるごとにすんなりはいってくる、けど全く違うように聞こえたりして感じるものは違ってくる、みたいな。
だからこそ別チームの公演を見ていくと作品全体として、言葉が深く入ってきて、点と点が繋がる感覚があったんですよ、たしかに。あ、これ数学っぽい?


運良く、初日から千秋楽まで完走とのことでお疲れ様でした。このご時世本当に本当にすごいことだろうと思った。私も運良く3チームすべて劇場で観劇できました。
こんなこと感想で言わなくてもいいんだけど、チケット3500円て安すぎる…安すぎるのよ……どうして…だから3チーム全部見られたというのもあるけど(たぶん価格が倍なら、全部見ることはちょっと考えてしまったと思う)(見たことない作品ならなおさら前評判だけで決済ボタンをタップするの悩む)。慈善事業なの…?ってなってしまった。クラファンにも参加していたので特典も受け取って大満足。見てよかった!って心から思える作品を見たあとに、その舞台に出ていた人の直筆サイン入りパンフレットもらえるなんて嬉しい限りです。


うーんどのチームも本当にすばらしかった。どの回も泣いてしまった。
Aではハルがノートを読むシーンで、Bはキャサリンが激昂するシーンとラストのキャサリンが語るシーン、Cは12月のシーンが印象に残っている。とメモってあった。
Aは姉妹の関係が、Bはキャサリンとハルの関係が、Cはロバートとキャサリンの関係が、それぞれすごく好き(これは好みといったらいいのかな)でした。
劇団員の方以外は皆さん初めてだったけど、Cクレアの水口さんがすごく魅力的でした…。

次の公演も楽しみにしております。両チーム見られるかな。

DULL-COLORED POP 第23回本公演『丘の上、ねむのき産婦人科』感想

DULL-COLORED POP 第23回本公演『丘の上、ねむのき産婦人科

【キャスト】
東谷英人、内田倭史(劇団スポーツ)、大内彩加、倉橋愛実、塚越健一、宮地洸成(マチルダアパルトマン)(以上DULL-COLORED POP)、
岸田研二、木下祐子、冨永さくら、湯舟すぴか、李そじん、渡邊りょう

【スタッフ】
脚本監修:北村紗衣 医療監修:稲田美紀(医師)

美術:土岐研一 照明:松本大介 音響:清水麻理子 衣裳:及川千春 
舞台監督:竹井祐樹(StageDoctor Co.Ltd.)配信映像監督:松澤延拓、神之門隆広
照明操作:和田東史子 舞台監督助手:澤田万里子 

宣伝美術:平崎絵理  制作助手:佐野七海、柿木初美(東京公演)、竹内桃子(大阪公演) 制作:小野塚 央

助成:芸術文化振興基金 協力:城崎国際アートセンター(豊岡市) 主催:合同会社 DULL-COLORED POP

(以上、HPから)

完全にはわかりあえない。だけど相手のことを知りたい、わかりたい、わからなくても話し合いたい、伝えたいと思いあえることがどんなに尊いか。
様々なエピソードがあったけれど、自分が過去に考えたり、今知りたいと思っていた問いに対する答えのうちの一つを教えてもらえた気がした。


性が違うから、普遍的にみて、男女の妊娠出産への向き合い方には違いがある。違わざるを得ない。
男性側はイライラするほど無神経に感じられ(タバコとか、寿司食べようとか、検診結果を気にしてなかったりとか、子どもがいない前提で旅行を組み立てるとか)るところも多かったが、わからないから説明しないといけない、しかし妊娠してから妊婦が冷静に1から説明する責任を負わねばならないのか?と。わからなくても調べようとするくらいはできるだろうというのは1場「ハイライト」でもでてきた。(態度だけの問題かと言われたら多分そうではないのだが…)
それはそれとして、3場「自由」の女性の夫に対する態度はひどく感じた。歩み寄ろうとしたのを振り払う。「あなたにはわからない」。しかしこのカップルの最後のシーンが一番泣けてしまった。うまく言葉にできないけど。話しかけて、ってはじめて夫を必要とした言葉だったから?これは4場「ロンドン・コーリング」の最後も同じように感じたけど。最終的にどうしてああいった言葉が出たのか、それは妊娠してみないとわからないかもしれない。
そして5場「スプレッドシート」。検査で可能性がなくなればすっきりする、それで終わり。でも検査結果に問題がなければ「振り出しに戻る」。どちらが本人たちにとってしあわせだろうか。通常、検査というものは結果良好なら喜ばしいはずなのに、悩みの種がそのままになっただけになった。最終的にはかなり重い、性虐待を背景に感じさせる展開だったけれど、スプレッドシートで話し合うというこの話はかなり身近に感じた。結婚前にここまで突き詰めて考える?と思う人もいるだろうけど、とても合理的だしそうするのが正解のカップルもいるだろうと思う。ここまで細かくなくてもある程度すり合わせるのはどのカップルにも必要だろうし。ここでは「子ども」は1つの項目であって、メインのようでメインじゃないのかもしれない。
6場「ペーパームーン」は平和なようで一番ちくちく来た。「子供がいて、迷惑?」と言わせてしまうのって…。でもこの言葉によって夫側が気づけたならいいのか。仕方ないのか。こういう光景って何度も見たことがある気がしていて既視感。女性側が気を使っているというか、場を収めようとしているいうか。
印象的だったのは7場「ライブ」。なぜ子どもがほしいのか?これに対する問いについて私はとても興味があるし、この世に存在する親全てに聞いて回りたいくらい。でもはっきり答えられる人は少ないだろうし、それそもそも明白な理由で子どもを作ろうということをきめて実際に作ったカップルがどれくらいいるだろう?つらそうにしていてくれると楽というのすごく共感できた。

全編通して、作中では男性側が折れる、というか、最終的には女性に寄り添うように見えることが多く、それは見ていて心に安寧をもたらした。
しかし現実はどうか?というと、そうなるケースのほうが少ないんじゃないかと思う。なんとなく。意図的にそういった脚本にしたのか気になった。

一応作品の中では、望まない妊娠というのはなくて、それを踏まえると、どんなに妊娠中や出産後のことを憂いたり悩んだりしても、一応相手がいてお互いがパートナーとして認めあっているというか、必要としているから、私達(観客や他人)が見ていないところでもふたりの時間が積み重なってちゃんと信頼なり関係を築けていると思って見られるところがよかった。(そうでなかったらただの虐待や人権侵害と思われる言動があったし、現実世界ではそのようなことも少なくなく起こっていることだと私は認識しているので。)
個のふたり、というか、1つのカップル(という表現で合ってる?)の間には2人にしかわからないこと・知らないことがあって、というかほとんどで、だから、2人が本心でそれでよいと思っていればまあ、それでよいのだ。他人に口を出す権利はない。これが異なる「生」と言えるのではないかと持った。

Aを見た後Bパターンも見た。ひとこと、違和感しかない。どうしても女性キャストは女性に見えるし、男性キャストは男性に見える。Aをみたから余計に?それはそう、なのだが。
スカートをはいているから女性なのか?はいたら女性になれるのか? 違うな、と。
これは演じた人・この作品を稽古の段階で見てきた人にしかわからない「わかり」があるんじゃないかと思う。自分が今と異なる性だったら?という考えというか。
それについては、両パターン観ての特典の内容がすごく良くて、絶対2パターン観てもらって読んだ方がいい…。正直Bを実際に観てというより、その文章からすごく新しいことを教えてもらえたというか。非売品なので中身のこと書くことはしませんが。

配信も買う予定。

劇団チョコレートケーキ 第33回公演『帰還不能点』感想

劇団チョコレートケーキ 第33回公演『帰還不能点』

東京芸術劇場シアターイース

【出演】
浅井伸治
岡本篤
西尾友樹(以上、劇団チョコレートケーキ)

青木柳葉魚(タテヨコ企画)
東谷英人(DULL-COLORED POP)
粟野史浩(文学座
今里真(ファザーズコーポレーション
緒方晋(The Stone Age)
村上誠基

黒沢あすか

【スタッフ】
脚本    古川 健(劇団チョコレートケーキ)
演出    日澤雄介(劇団チョコレートケーキ)
舞台美術  長田佳代子
照明    松本大介(松本デザイン室)
音響    佐藤こうじ(Sugar Sound)
衣装    藤田 友
演出助手  平戸麻衣
舞台監督  本郷剛史
宣伝美術  R-design
写真    池村隆司
撮影    神之門 隆広(tran.cs)
Web     ナガヤマドネルケバブ
制作協力  塩田友克
制作    菅野佐知子(劇団チョコレートケーキ)
企画・製作 一般社団法人 劇団チョコレートケーキ

1950年代、敗戦前の若手エリート官僚が久しぶりに集い久闊を叙す。
やがて酒が進むうちに話は二人の故人に収斂する。

一人は首相近衛文麿
近衛の最大の失策、日中戦争長期化の経緯が語られる。

もう一人は外相松岡洋右
アメリカの警戒レベルを引き上げた三国同盟締結の経緯が語られる。

更に語られる対米戦への「帰還不能点」南部仏印進駐。

大日本帝国を破滅させた文官たちの物語。

 

感想

〇まず

幕が下りて、ああ、本当にこの作品に出会えてよかった…という余韻で頭がボーっとしてしまった。演劇ってすごい。

人物それぞれ演じるだけでなく、劇中劇で再現される日本が帰還不能点に至るまでの経緯。それだけで終わらずに展開していく怒涛の終盤……と、作品の作りがとてもおもしろい。自分にとっては難しい内容ながら、理解するのがおっくうにならないのは脚本の力と、そしてそれを演じる俳優の皆さんがすばらしい。演劇がすきという人に一人残らずみてほしい。

 

〇内容のこと

幕が開いてすぐのシーンを初めて見たとき、当時がそのまま再現され、そのまま物語が進んでいくものかと思ったが、そうではなかった。それがまず一つ目の驚き。

場面が転換し、飲み会の場で繰り広げられる「演劇」によって、日本の対米戦への歩みがわかる流れになっている。

そのままの再現でなく、お酒が入った状態で大げさに当時の人物をマネしたりと笑えるシーンもはさみつつ(これもまた驚き。ずっと緊張したシーンばかりが続くより、とっつきやすい作りに感じた)、日本の「帰還不能点」が再現される。

このやりとりがとても興味深くておもしろい。以下雑感

・近衛と松岡。明らかに間違っているという発言はあれど、明確な間違いを犯した直後だと、明確に正しいと思われるはずのことも信用されなくなってしまう。言葉の中身を、誰が言ったかだけで判断してはいけないなという実感。

・国民は当時のやり取りの中身をみることなく、離れたところで意思決定が行われていると思わざるを得ない。

・対米戦は避けるべきだったという結論に当時の時点で至っていたにもかかわらず、どうして?という疑問は消えない。

・軍部の体質については、今回の話を見てはじめて納得がいったというか、筋が通ったかんじがした。

 ・日本は他国がどう動くかを都合がよい方に予想して、その予想が裏切られていく、という流れが、なんだか今と変わっていないなと思ってしまった。都合の良い解釈で身を亡ぼすというか。

 

〇終盤のシーン

再現のシーンが終わり、かつての仲間たちは今なにをしているかという話題に移る。

そこで美智子の視点で語られる言葉というのがとても胸に刺さることばかりだった。まず、松岡夫人と近衛夫人はどうなったかという問いかけ。これまで東京裁判のことを世界史などで学ぶことはあったが、その点には考えが至らなかった。でも確かにいたはずなのである。裁かれるはずだった当人に残された人の気持ち。人それぞれの戦後。もちろん美智子の戦後についても。

そしてエリートたちにも、職を失った者、そのまま官僚を続ける者、それぞれだった。その中でも責任を負おうとした山崎の存在。責任を自分のものとして負おうとおもった人は希少だろう。自分を罰していたのだろうというのは美智子の言葉。山崎の代わりにと投げかけられた「あなた方にできたことは本当になかったのか」という問いかけ。誰かのせいにせず自分には何ができたか問い続けること。近衛でも松岡でもない私たちの選択。

 言い訳のような言葉を連ねる仲間の言葉の中で、「今は国民全体が共通の認識を持っているから大丈夫」というのが、とてもひっかかった。

つまり、忘れてしまったらそれまでということではないか。

劇の中の時代より進んだ時代にいる自分。そしてそのあとの時代は。引き継いでいくしかない。 私たちが考え続けるしかない。

最後にもう一度模擬演習をやる、その時は幕が開いてすぐの、客席に背を向けた配置から反転して、総理も客席側を向いている。向き合っている。そこではじめのシーンで背中を眺めていた違和感が解ける。

 

〇アフターアクトをみて

アフターアクトをみて、また新しく感じたものがあった。特に岡田役の岡本さんのアフターアクト。

本編ではとても生真面目な印象の岡田だったが、山崎という男を前にした岡田は終始楽しそうで、お酒が入っていることもあってか言動も調子が良くて、本編とは違った印象。

しかしそんな岡田も、この山崎との会話を通して、本編中で当時の仲間たちに問いかけるきっかけが作られたんだと思った。

 山崎から岡田へ、岡田から仲間たちへ、そしてこの作品を観た客席の私たちへ渡っていくものがある。

 

映像配信も買って、ゆっくり見られた。アフタートークもおもしろかった。役を決める過程とかあるのか…とか。役同士の設定・役作りとか。特に外務省の2人の間柄の話とか。同窓会での心境とか。もう一回はじめからみたくなったな。

本当に広く多くの人に観てほしい。きっと再演されると信じています。

ミュージカル「パレード」感想

ミュージカル「パレード」

東京芸術劇場 2021年1月観劇

 

(以下、HPより)

作 アルフレッド・ウーリー
作詞・作曲 ジェイソン・ロバート・ブラウン
共同構想及びブロードウェイ版演出 ハロルド・プリンス
演出 森新太郎

キャスト
石丸幹二堀内敬子武田真治、坂元健児、福井貴一、今井清隆、石川 禅、岡本健一
安崎 求、未来優希、内藤大希、宮川 浩、秋園美緒、飯野めぐみ、熊谷彩春
石井雅登、白石拓也、渡辺崇人、森山大輔、水野貴以、横岡沙季、吉田萌美

企画・制作 ホリプロ

(以下、HPより)

 

メモ
 初演はアメリカで1998年(22年前)。日本では2017年以来2回目の公演。

 

感想
・観劇後にすっきりしない理由
 この作品を見ていて本当にもどかしい気持ちになるのは、客席の目から見ればレオが犯人でないことは明らかなのに、マジョリティの力によって事実がねじ伏せられて有罪に仕立て上げられてしまうところだと感じる。途中、裁判の証言は嘘であるとわかって一瞬強い希望の光が射し、しかしその直後にレオは私刑により命を落として終幕となる。
 司法制度が人を裁くためのシステムであって、真実を明らかにするためのシステムではないというところがどうにも歯がゆく悔しい。もちろん公正な調査によって真実が明らかになる事件もあるだろうが、そうでない事件もあるということ。それに差別的なものが加担していること。
 それと、あれだけ扇動した記者はなにも責任を問われないのか、という単純な疑問と悔しさがのこった。

・差別のこととか対人的な言動について
 黒人差別の上にユダヤ人差別を重ねた構造になっている。歴史が動く上でこういった構造は少なくないのかもと思った。
 また、ストーリーの大きな流れとして、レオはユダヤ差別という意識の扇動の結果犯人に仕立て上げられたわけだが、レオ自身も南部の人間に対して、差別とまではいかない(と言っていいかわからないが、なにかを行使するわけではない)が、根底に自分とは違う人間だという意識がある。(♪M2a)
 最後のシーンを見ていてふと、差別の構造と戦争の構造がとても似ているなとおもった。仮想敵を作って仲間意識を高めるという感じ。これも遠い過去に学校で習ったような気がする。多分それを思い出した。
 それと、これは差別とは違うけど、冒頭から再調査が始まるまでのレオのルシールに対する態度があまりにもひどくて胸糞悪い。のちに変わるとわかっていると余計鼻につくというか。まあ事件が起こるまでの2人の関係性がどんなだったか調べていないのでわかりませんが。ただ、裁判の時点でレオが明確に無罪だとわかっている(というより「信じられる」というのか)のはルシールだけだったのか、と思うと、レオのために奔走できるのは彼女しかいなかった。それにしても重い。自分がそんな立場だったら生きていける気がしない。実際にはじめは裁判に立ち会えないという姿勢だったのだけど。

・This is not over yet
 この音楽がとても好きだ。湧き上がってくるような期待と光があって、わくわくせざるを得ない曲調。久しぶりに聞いたらそのわくわくが懐かしくてうれしかった。しかし作品的にはここで見せた希望が明るくなるほど最後の絶望がコントラストで大きくなる気がして、結末を知ってから見るこのシーンはどんな気持ちで見たらよいのかわからなくなってくる。
 それと、この曲だけじゃない「まだ終わりじゃない」のダブルミーニング感。プログラムの背表紙にも印刷されていて、これはまだこの作品は幕が下りて終わりじゃないんだよと言われている気がする。レオの人生は終わってしまっても、そのあと残された人は、アメリカは、世界は?と投げかけられているような。

・2021年の「今」、「日本で」上演するということ
  前回公演時より、時代がこの作品の社会的役割みたいなものを大きくしてしまったような、見るのにますます覚悟がいる作品になったという印象があった。でもやはり見なければと思わせる要素がたくさんあった。再調査を知事が宣言した後市民が暴動を起こすようなシーンは、ついこの間テレビの画面でみたアメリカがフラッシュバックした。
 新型ウイルスのせいか(おかげといってもいいかもしれないが)、はたまた私個人の価値観の変化なのか、この1年弱で政治的な問題が次々に表に出てきているような気がしていて、これまでひっかからずに見られたところが引っかかったりするようになった気がする。
 
 私は日本人であり、アメリカの歴史を背負って生きているわけではない。しかし、この作品をみたら、すぐそこにある危機感というか、日本でも同じかそれよりもひどいことが起きることが容易に想像できるようになったような。差別というのは本当に身近だ。自分がする側にもされる側にもなりうる。現になっているのだと思う。
 この事件をミュージカル作品にできるのってすごいと思う。アメリカ…。だってまだ差別は存在しているわけでけして「過去」じゃない。それを1998年の時点で作品にしているということが。それを日本に持ってこれた、上演を決断して決行してくださった方々にもありがとうだな。


 人が扇動されていく熱を帯びたうねりみたいなものが、音楽によって舞台装置によって演出によってすごく強く表現されていて、ミュージカルってすごいな、と思った。音楽的な気持ちよさ、気持ち悪さ、それらに体が反応してしまう感じというのが、理屈じゃなくあるよなってのを自覚させる。
 自分が正義と信じるものを武器にして暴走するということはありうるだろうし、正しいと思ったものを信じて動くことはすべてが悪いことではない、しかし見失ってはならないものを見失わないようにしなければ。見失わないためにはどうすればよいだろう。たぶんその決定的な答えは見つからなくてもよくて、自分も世界も疑いながら勉強しながら調べながら、様々な意見を聞いて、考えて、ただ流されて生きていくことをやめるしかないのだと思う。

 

(1月ごろに書いておりました。)